第六話 — 海賊 — のつづき §3
・ 大航海時代
1456年、それまで東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の領域だったコンスタンティノープル(現イスタンブール)がイスラム国家(オスマン・トルコ)に占領され、ヨーロッパの食生活に欠かせない香辛料(胡椒)などアジア産の商品の流通に支障が生じたことや、イベリア半島での「レコンキスタ」(キリスト教国による国土再征服運動:718~1492)が終了したこと、造船技術が進歩して長期航海が可能な堪航性能の高い船を造ることができるようになったこと、航海用具(羅針盤等)の進歩や鉄砲の製造技術向上などが重なり、さらに1300年代にはベネツィアの商人「マルコポーロ」の著書「東方見聞録」の写本が広く出回ったことなどがヨーロッパの人々の新世界への関心を高め、大航海へ駆り立てたのだとされています。
ポルトガル王国の王様「ジョアン一世」の息子「エンリケ」(1394~1460)は、莫大な資産を背景に探検家や航海者を援助し、また、同国南西部に造船所、気象台(天文観測所)、航海術や地図(海図)の作成法を伝授する学校を開設するなど大航海時代の幕を開いた人物として語り継がれています。同じくポルトガルの航海者「バスコ・ダ・ガマ」(1469?~1524)は、アフリカ南端の喜望峰を回りインドへの航路を開き、1510年ポルトガル王国海軍がインドの重要貿易港「ゴア」を攻撃し陥落、アジアへの貿易拠点を築きました。
同じころ、イタリア生まれの「コロンブス」(1451~1524)は「カスティーリャ」(スペインの前身、お菓子のカステラはそのポルトガル語読み)の女王「イサベル一世」の援助により3度の大西洋横断を試み、サンサルバドル島、キューバ島、ハイチ島などを探検し、3度目に現在のベネズエラ、オリノコ川河口に上陸、南米大陸を発見したとしていますが、コロンブス自身は自らが発見した島々や南米大陸をアジア(インド)であると確信して主張し続けたそうです。スペインによる新世界(中米・南米大陸)の発見は同国の領土獲得と先住民(インディオ)への大規模な虐殺、略奪、奴隷化(強制労働)が始まることとなります。さらにはスペイン人船乗りたちが持ち込んだ伝染病(天然痘など)によりインディオが感染し、16~17世紀の間に人口が1/4にまで減少した由、このため中南米の植民地経営(主に農業生産)にとっても労働力不足が深刻となり、大西洋を挟んだアフリカの西海岸に黒人奴隷を求めるに至り、欧米各国の「奴隷貿易」の拡充に続いて「植民地」の獲得競争へ突き進んでいきます。
のち、ポルトガル人の航海者「マゼラン」(1480~1521)はスペインの援助のもと、西回り世界一周航海に乗り出して南アメリカ大陸の南端「マゼラン海峡」を発見、さらに太平洋を横断して「フィリピン」に到達、マゼラン自身はマクタン島での原住民との戦闘で戦死(1521年)しましたが、探検航海に同行したスペイン(バスク)人の探検家「ファン・セバスチャン・エルカーノ」(1476~1526)がセビリアを出航してから約3年後の1522年9月6日、「ビクトリア号」と船員18名とともに母港に帰港して人類初の「世界一周航海」を達成しました。
・ カリブ海の海賊(バッカニア)
カリブ海の海賊は、コロンブスによる西インド諸島到達の後、スペインによる中南米への植民地政策に続いて、フランス、イギリス、オランダ、ポルトガルなど当時のヨーロッパ列強による植民地獲得競争や産物の交易をめぐる利権衝突の結果として派生しました。
海賊たちは、ヨーロッパ列強各国の無秩序で勝手な思惑のもと、「私掠免許状」の発行などにより半ば公然と海賊行為を行っていましたが、私掠船が次第に衰退し始めると現在のハイチ北部や「トルトゥーガ島」(イスパニョーラ島の北西にある小島)等を拠点として、主にスペインやフランスの輸送船に対し略奪行為を働くようになりました。彼等の中には元私掠船の乗組員も多く、様々な国籍のならず者達が人口が少なかったトルトゥーガ島に集まり独自の共和制のもと一定のルールにより統治されていたものの、イギリスがスペインから「ジャマイカ島」を奪取すると、初期のジャマイカ総督は「バッカニア」達に「ポートロイヤル」への定住を奨励する一方、同島周辺海域の制海権維持のためバッカニアやイギリス人に再び私掠免許状を発行しました。このため、同島の当時の首都ポートロイヤル(イギリス人宣教師はこの街を「世界中で最も堕落した街」と形容した。)は海賊達の一大拠点となりましたが1692年の大地震で街の2/3が海中に沈んでしまい、現在のジャマイカの首都は「キングストン」に移されています。有名な海賊「黒髭」(1680?~1718、イギリス人、本名エドワード・ティーチ)や「ヘンリー・モーガン」(1635~1688、イギリス人、イギリスのジャマイカ大裡総督になった元海賊)もポートロイヤルを拠点の一か所としていました。
偉大な海賊?と呼ばれる「バーソロミュー・ロバーツ」(1682~1722、イギリス南ウェールズ生まれ)の海賊論?
『まっとうな仕事は、食い物は貧しいし給料は安くて仕事はキツイ。この仕事(海賊稼業)は、お宝はたんまり手に入るし、楽しくて簡単、そして自由で力がある。こんなうまい仕事、やらずにいられる奴がいるかい?「人生太く短く」が俺のモットーだ!』
と言い放ったとか。また、ロバーツが船長だった海賊船「ロイヤル・フォーチュン」号の船内では以下の「掟」(おきて)が厳守されていたそうです。
- 乗組員全員に平等な投票権、発議権を与える。
- 仲間内で金品を窃盗・横領した者は孤島置き去りの刑。
- カード、サイコロを使った賭博の禁止。
- 午後8時に消灯し、以後の飲酒は甲板上で月明りのもとでのみ許可。
- ピストルやカットラス(湾曲した幅が広い小刀)の手入れの徹底。
- 女性、子供を乱暴目的で船に伸せた者は死刑。
- 戦いの最中に船を見捨て降伏した者は死刑もしくは孤島置き去り。
- 船上での口論禁止。岸に着いた際、決闘により決着を付ける。
- 収益は役割別に平等に分配、戦闘で負傷した者には手当を別途支給する。
- 安息日には音楽隊により讃美歌を奨励する。
バーソロミュー・ロバーツはハンサムでお洒落な男だったそうで、赤い宮廷士用半ズボンに飾り帯、オーバーコートを羽織り、赤い羽根を付けた三角帽子を被り、肩に緋色のガンベルトを吊るし、ポルトガルの商人から奪い取った「ダイヤモンドを散り嵌めた十字架」を金のチェーンで首から下げていたとかで、ディズニーのファンタジー映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」の主人公「ジャック・スパロー」はきっと彼がモデルだったと思っています。

「海賊」バーソロミュー・ロバーツ肖像・出典ウィキペデア
1692年にジャマイカを襲った大地震により「ポートロイヤル」が壊滅したことは、拠点とする港と略奪品を売り捌く市場が失われたことで海賊達にとっても打撃が大きく、加えてスペイン領の主要な植民地が本国による人的物質的簒奪により消耗したこと、さらにイングランドが植民地貿易の利権を保護し、急成長していたオランダが海上貿易から自国の貿易を守る目的で制定した「航海法(航海条例)」の影響により次第に衰退、のち彼らはインド洋に獲物を求めた。当時のインド洋ではインドの特産品の「キャラコ(平織の綿布)」や「絹」の取引が盛んで、アフリカ大陸東岸のマダガスカルを拠点としてムガール帝国や各国の東インド会社の商船を目標として略奪を繰り返しました。
1714年、「スペイン継承戦争」(アン女王戦争)の終結後、軍務を解かれたイギリスの非正規戦闘員(水夫)や各国のならず者達は再びニュープロビデンス島のナッソー(現バハマの首都)に終結、この時代に活発化した「三角貿易」(ヨーロッパ→西アフリカ→西インド諸島→ヨーロッパ)に従事する商船を対象として海賊行為を働くようになっていき、事案の増加を憂慮したヨーロッパ各国は海軍を増強・強化し、1719年の初頭にはほとんどの海賊がカリブ海から逃げ出し、その多くは活動海域を西アフリカに移し「奴隷商人」の船を襲撃するようになったものの、1721年、イギリスで海賊条例が改正され、海賊と取引することにより海賊と同罪と見做され、1722年にはアフリカ西海岸でイギリス海軍により海賊達の大量処刑が行われたことにより終焉しました。
・ ソマリア沖の海賊
2011年の年間発生件数237件をピークとして徐々に減少傾向を示し、2019年には確認件数ゼロになりました。スエズ運河~紅海~インド洋に至る海上輸送の要衝であるアデン湾やイエメン沖で頻発した海賊行為です。1991年以降、ソマリアは内戦の影響でほぼ無政府状態となり治安が極端に悪化、2008年には少なくとも5つの海賊団、構成員1000人以上という調査結果があります。彼らは海や船を熟知し操船に長けた元漁民をリーダーとし、火器の扱いに慣れた元民兵が襲撃を担当、GPS(全地球測位システム)やレーダー、AIS(自動船舶識別装置)などを扱う元エンジニアなどを集め、自動小銃や小型ロケットランチャーで武装して小型の高速ボートで通航船舶を襲い人質を捕ったうえ、その「身代金」の支払いを目的としていました。
ソマリア沿岸の港町「エイル」の沖合には拘束された船舶が停泊させられ、市内には海賊相手の会計士、運転手、建築業者、船食業者(人質への食糧供給)などのサービス企業が成立しているらしく、他方海運業界にあっては海賊と船会社の間の人質解放交渉や身代金支払い交渉にあたる警備会社、あるいは海賊被害に対しての交渉費用や身代金費用などをカバーする特約付き保険を提供する損害保険会社も登場したとか。このような状況のなか「国連安全保障理事会」でも度々「海賊抑止」についての協力を呼びかけ、G7(先進7か国首脳会議)においても言及、2019年8月、横浜で開催された「TICKD7」(第7回アフリカ開発会議)でも「横浜宣言2019」として海賊対策の重要性について触れています。曰く、
「我々は、海賊行為、違法・無報告(IUU)漁業及び他の海上犯罪との闘い並びに国際法の諸原則に基づくルールを基礎とした海洋秩序の維持を含む海洋安全保障の分野において、二国間、地域的及び国際的なステークホルダー〈利害関係者〉の協力を促進する必要性を強調する。」〈〉内筆者
日本の防衛省は「海賊対処法」(平成21年7月施行)に基づき「派遣海賊対処行動部隊」(護衛艦2隻、哨戒機2機、支援部隊)を派遣して、紅海沿岸の「ジブチ共和国」を拠点に海陸空一体となって警戒監視を行っています。
・ マラッカ海峡の海賊
マラッカ海峡はマレー半島とスマトラ島(インドネシア)を隔てる長さ900キロメートルの狭い海峡で小島や河川の流入がたくさんあり、海賊達が隠れたりあるいは逃走するのに最適な海域で獲物?も多い。この海域での海賊行為の歴史は古く、14世紀には王国の建国のために海賊達が利用されたり、15世紀にはヨーロッパ列強による東南アジアの植民地支配にも影響しオランダ、ポルトガル、イギリスなどの商船も被害に遭っています。18~19世紀にはヨーロッパの香辛料貿易が盛んとなったことから通航船舶が増え、周辺住民の貧困と植民地支配への抵抗の意味もあり事案は増加しましたが、イギリスとオランダが協力して海峡を2つに分けそれぞれの分担地域で取締りを強化、1870年代には一旦減少傾向となりました。
近代では、中東から東アジアへの所謂「タンカールート」など海上輸送の要衝となっていて、近年ではIMB(国際海事局・本部はロンドン)は「インドネシアは世界で最も海賊行為の盛んな地域の一つである。」とし、さらに保険組合ロイズ(ロンドン)は「マラッカ海峡は保険対象としては戦争地域に準ずる危険度である。」としています。
1990年代後半マラッカ海峡等で海賊被害が増加傾向となり対策が急がれたところ、2001年我が国が主導して多国間協定の構築が開始され、2004年「アジア海賊対策地域協力協定」(ReCAAP:マラッカ海峡の海賊をはじめとする、東南アジア方面の海賊対策のための多国間協定)の締結がなされ、2006年9月に発効しました。締約国は2014年にアメリカ合衆国が加わり現在20か国となっています。
四方海話 17 第六話 — 海賊 — §3 「おわり」
次回は 四方海話 18 第六話 — 海賊 — §4 ・日本での海賊行為・ です。

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