四方海話 16

第六話  — 海賊 —    のつづき §2

・ キリキアの海賊

 キリキア地方は現在のトルコ共和国南部、東地中海のキプロス島の対岸(北側)に位置します。この地方の沿岸部は天然の良港となる入江や小島が点在し、海賊たちの隠れ家として絶好の地理的条件が整っていたため、ここを拠点として東地中海で海賊行為を重ね数百に及ぶ沿岸の村や町または都市を襲撃、ローマ帝国の交易船やローマ市民も多数犠牲になった。後のローマ皇帝「ユリウス・カエサル」も遊学途中に海賊に捕らえられ、多額の身代金と引き換えに開放されたというエピソードがある。この事件のおよそ10年後(BC67年)ローマ元老院は軍人「ポンペイウス」に海賊退治を命じ、彼は総司令官として軍艦500隻・歩兵12万人・騎兵5千人の大勢力を率いキリキア海賊掃討作戦を行い全滅させた。大成功したポンペイウスだったが、凱旋後、ローマ元老院と皇帝カエサルとの対立の陰で暗殺され、その息子が復讐心に燃え海賊となってローマ商船への襲撃を繰り返したもののBC32年捕らえられ処刑された。

・ ヴァンダル族

 BC2世紀~AD4世紀にかけて現在のポーランド南西部(「シレジア地方」)に発展した「プシェヴォルスク文化」(鉄器文化)の担い手がヴァンダル人であったそうです。AD2世紀、同種族の一派は近隣種族の協力のもと「ドナウ川」下流域でローマ帝国軍と交戦、和睦の後、一旦現ルーマニアの西部(西ダキア)と現ハンガリーの東部に定着するものの、西暦400年ころ東方からの「フン族」の侵入を契機として同盟関係にあった「スエビ族」や「アラン族」とともにドナウ川に沿って西方への移動を開始した。途中、「フランク族」(当時ライン川中流域に住んでいた「ゲルマン民族」の一派。)の攻撃に遭うも、当時の王をはじめ多くの犠牲を払いつつ、406年末凍結したライン川を越え「ガリア地方」に侵入して略奪・殺戮を繰り返しながら409年10月には「ピレネー山脈」(スペインとフランスの国境地帯を東西に走る3000㍍級の山が連なる急峻な山岳地帯。)を踏破して、スペインの領域に入る。ローマ帝国から建国を承認されて「アンダルシア」地方(ヴァンダル人の国の意)に一時留まるが、先に同地方に侵入していた「西ゴート族」との間に紛争が絶えることがなかったらしく、当時の王族「ガイセリック」は大船団(艦隊)の建造に着手、王様となった後の429年、一族約8万人(スエビ族・アラン族を含む。)とともに「ジブラルタル海峡」を渡る。彼らはローマ帝国の支配地域だった北アフリカの地中海沿岸を東進し、途中、ローマ帝国からいくつかの領土を得たが、439年彼ら自らの力により当時のローマ領「カルタゴ」(現チュニジア・チュニス)を占領「ヴァンダル王国」を建国した。

 ヴァンダル王国は地中海の大海賊勢力に発展、シチリア島、サルディニア島、コルシカ島、バレアレス諸島を征服し、455年にはローマを占領、468年には東ローマ帝国の艦隊を壊滅状態にまで追い込んだ。

 ガイセリック王の死後王国は次第に対外的な力を失い、東ゴート族によるシチリア島への攻撃やムーア人の自国領内への侵入などを受ける一方、王家の内紛も重なり急速に衰退していく。

 サルディニア島で発生した反乱の鎮圧のために王国の主要艦隊が同島に遠征しているスキをついてローマ軍がチュニジアに上陸、カルタゴを奪い返したのに続いて海戦においても王国海軍が敗退、534年に王国は滅亡した。

 その後生き残ったヴァンダル人達は現ドイツの東部やポーランド南西部の故地(シレジア地方)に戻り地元民と同化した。ドイツでは現代でもこの地方をヴァンダロルムと呼んでいるとか。

 ヴァンダリズム(破壊・略奪・蛮行)の語源はヴァンダル族の行為に由来する。別途「落書き」の意味もある由で、神出鬼没の「バンクシー」の落書きもその範疇か?

・ ヴァイキング

西欧では西暦800年~同1050年の間(約250年)をヴァイキング時代(Viking Age)と呼ぶそうです。彼らは北方系のゲルマン人でスカンジナビア半島やバルト海の沿岸に住んでいたことからノルマン人とも呼ばれ、中世ヨーロッパの歴史上大きな足跡を残した。一般的なイメージでは「ロングシップ」という独特の船型をした喫水の浅い鎧張りの船で地中海を含むヨーロッパの各地海岸に出没しては海賊行為を繰り返したとされていますが、「コンティキ号の航海」で有名な「トール・ヘイエルダール」(ノルウェーの人類学者、考古学者、海洋生物学者、探検家、1914~2002)の研究によればヴァイキング達の航海の主目的は交易で、収入の大部分はその利益であり、海賊行為は例外的であったと主張している。

 彼らの活動範囲はスカンジナビア半島周辺はもちろん、ブリテン諸島、イベリア半島、イタリア半島、バルカン半島、北アフリカ、西アジアなど広範囲で、さらに北大西洋を渡って北アメリカ大陸のニューファンドランド島にも植民都市が造られた。

 興味深いのは「ロングシップ」は喫水が浅く、帆走だけでなくローイング(手漕ぎ)でも進むことができることを利用し、河川を遡って内陸部にまで進出することが可能だったことで、バルト海のリガ湾やフィンランド湾に流入する河川を遡上し、積み荷は中継地で小型の船に積み替えたうえさらに上流に向かい、航行不可能な一部の陸路「連水陸路」では船ごと引きずって次の河川に至り、最終的に「黒海」や「カスピ海」に続く交易路「ヴァリャーグからギリシャへの道」を利用していた。これらのヴァイキングの一派は「ヴァリャーグ人」あるいは「ルーシ」または「ルス」と呼ばれ、国名「ロシア」の語源になったということです。

 西暦862年ノルマン人の首領「リューリク」がスラブ人から請われて「ノヴゴロド公国」を建国したのち、882年には南方の都市「キエフ」を征服し版図を拡大した。ノヴゴロドは現在ロシア最古の都市の一つに数えられ、旧市街は世界遺産に登録されています。

 ノルマン人はロシアの国家形成だけでなく、フランスでは「ノルマンディー公国」、イングランドにおいても「ノルマン王朝」に関わっていますが、9世紀以降ヨーロッパあるいは東方に向かった彼らは次第にそれぞれの地に土着し、現地の人々と同化していった。

  ヴァイキングが使用した船は「ロングシップ」が有名ですが、他に「クナール」と呼ばれる小型の輸送船や「オーセベリ」「トゥーネ」「ゴクスタ」などロングシップにもバリエーションがあり用途に応じ使い分けられていた?

ヴァイキング博物館(ノルウェー・オスロ)・ロングシップ(オーセベリ)・出典ウィキペデア

・ ムスリム海賊・バルバリア海賊・オスマン海賊(コルセア)

 「バルバリア」(バーバリ)とはヨーロッパの人々が16~19世紀にかけて「ベルベル人」が住む北西アフリカの一帯を指して用いた名称で、モロッコ、アルジェリア、チュニジア、リビアの領域(現在の「マグリブ」)を指します。7世紀以降「イスラム帝国」がこの地域に侵攻し、8世紀には地中海南岸と東岸を領域化しました。これに対し地中海の北岸は「フランク王国」の主導のもとキリスト教圏に組み込まれ、地中海世界は異なる二つの文明体系に分裂、以来、南岸の主要な港町であるアルジェ、チュニス、トリポリなどを拠点としてムスリム海賊が徐々に台頭し、イタリア、フランス、スペイン、ポルトガル、ブリテン諸島、オランダ、アイスランドなどの海浜の町や村を襲撃し、破壊、略奪、殺戮を行った他、奴隷として売り捌くため住民を捕獲、拉致した。15世紀には「オスマン帝国」の勢力拡大を機に襲撃の頻度が上がり、ヨーロッパ各国(アメリカを含む)の交易船が捕獲されるとともに、スペインやイタリアの地中海沿岸地域では16~19世紀の間には80~125万人のヨーロッパ人が連れ去られ奴隷にされたと推計されていて、ほとんど全ての住民が居住を諦め19世紀初頭まで定住が進まなかった。一部の富裕層は多額の身代金を払って解放されたこともあったらしいが、多くの奴隷がガレー船の漕ぎ手として船内に繋がれたまま一生を終え、他方、農場の働き手として過酷な肉体労働やスルターンの王宮あるいは王族の住居内で酷使された。

 アメリカの独立宣言(1776年)以前には、イギリスと北アフリカ諸国間の条約により、アメリカ国籍の船舶はバルバリア海賊の攻撃対象から外されていたものが宣言後は条約による保護が期待できず、アメリカにとってバルバリア海賊の存在が脅威となった。

 このことをきっかけとして1794年アメリカ合衆国は海軍を創設することとなったが、創設当時の海軍力は貧弱で海賊との間で和平協定を締結せざるを得ず代償として多額の上納金を強制された。上納金の額は1800年のアメリカ国家予算の20%を占めるまでになった由。その後二度にわたる戦争(第一次、第二次バーバリ戦争)に勝利し、有利な条約を締結することとなりますがアルジェリアは条約の履行を拒否し続けたとか。

 1814~1815年の「ウィ―ン会議」で、ヨーロッパ各国がバルバリア海賊の海賊行為を終わらせる必要性について議論がなされ、1816年イギリスとオランダの連合艦隊がアルジェリアを攻撃、1820年にはイギリス艦隊が再度攻撃して、さらに10年後(1830年)フランス軍がアルジェリアに上陸、占領しアルジェを基地としたムスリムによる海賊活動がようやく終息した。

・ 私掠船(しりゃくせん)

 他国と戦争状態にある一国の政府が、敵国の船舶を攻撃して船そのものや積み荷を奪うこと(=海賊行為をおこなうこと)への許可を与え交付する許可証「私掠免許状」の発布を得た個人所有の船をいう。大航海時代(15~17世紀)以降、自国の通商路の維持確保と敵対国の通商路破壊を目的としたものと、低下した自国の海軍力を補うため免許を与える場合とがあった。

 16世紀中庸のカリブ海で、スペインの貿易船に対しフランスの私掠船が盛んに攻撃を繰り返し、イングランドの女王「エリザベス一世」(1533~1603)も続いて免許状を発行、同国南西部の港湾都市「プリマス」の商人「ウィリアム・ホーキンス」は私掠行為と密貿易で莫大な利益を上げ、プリマスの市長になった。

 イングランドの航海者「サー・フランシス・ドレイク」(キャプテンド・レーク)もまた私掠免許状を得たうえ、同国人として最初に世界一周に成功し、航海途上チリやペルー沿岸のスペイン植民地や輸送船を襲撃して多くの戦利品を奪い凱旋、母国のイングランドの財政に多大な貢献をしたことから「サー」の称号をうけるとともにイングランド海軍の中将に任命された。のち、1588年イギリス艦隊の副司令官として「アマルダの海戦」(1855年・英仏海峡)に参戦、宿敵スペインの「無敵艦隊」を壊滅させた。イギリスでは現在でも彼を英雄と讃え、イングランド南西部の港湾都市プリマスの公園には銅像が立っている。

フィリップ・ジェイムズ・ド・ラウザーバーグ画(1797・英)「無敵艦隊の最後」・出典ウィキペデア

 また、オランダの前進「ネーデルランド」ではスペインからの弾圧により下級貴族が団結、「海の乞食団」(ゴイセン)と呼ばれる軍事集団を組織し、ネーデルランド連邦共和国初代君主「ウィレム一世」から私掠免許状を受けスペイン支配化の海浜都市を焼き討ちし、あるいは海上勢力に対しゲリラ戦を展開するなどオランダの独立戦争に貢献した。

 さらに、アメリカの南北戦争(1861~1865)においても南部の連合政府が私掠免許状をしたが、圧倒的優位にあった北軍の海上勢力により鎮圧された。

 1856年、ヨーロッパの列強は「パリ宣言」で私掠船の利用を放棄、1907年、第2回「ハーグ会議」では、武装した商船は軍艦として登録されるべきことが国際法として規定され私掠船を利用する悪習慣は終焉することとなった。

四方海話 16 おわり

次回は 四方海話 17  第六話のつづき ・大航海時代・ です。

 

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