四方海話 18

第六話  — 海賊 —  のつづき  §4

・ 日本での海賊行為 

 西暦57年(弥生時代の中頃)、「倭奴国王」(奴国の位置は不詳、北九州福岡市・春日市付近?)が「後漢」(AD25~AD220、中国古代王朝、王は「光武帝」)に使者を送り、「金印」(「漢奴国王」・1748年<江戸時代>福岡県博多湾の「志賀島」<しかのしま>の畑で発見された。)を贈られました。後の西暦239年には「邪馬台国」の「卑弥呼」が「」(AD220~AD265、中国古代王朝、初代の王は「三国志」で有名な「曹操」)に使者を送り、「親魏倭王」の称号と金印(こちらは未発見:卑弥呼の墓に副葬品として存在するのか?)と銅鏡100枚を下賜されました。金印はともかく、中国大陸に使者が到達するためには当然「渡海」(とかい)しなければならず、その際にどのような船に乗って、どんなルートを辿ったのでしょうか?そちらの方が気になります。さらに当時の航法は?気象の予測は?日本近海や東シナ海、黄海、渤海湾に海賊は居なかったのでしょうか?西暦607年「小野妹子」の「遣唐使」や、西暦630年の「遣隋使」ですら渡海は命懸けだったそうですから、それよりさらに500年ほど前の航海は如何ばかりかと想像するだけで背筋が寒くなります。

 太平洋戦争以前の尋常小学校の教科書には「古事記」「日本書紀」に記述された「神功皇后」(成務天皇40年<西暦170年>~神功皇后69年<西暦269年>、第14代「仲哀天皇」の御后)が夫の仲哀天皇の「熊襲征伐」(くまそせいばつ)に随伴し勝利したのち、お腹の中にのちに「応神天皇」となった御子を宿しながらも大軍を従えて海を越え、「新羅」(しらぎ)に攻め込んで、「百済」(くだら)、「高句麗」(こうくり)をも服属させた「三韓征伐」(さんかんせいばつ)についての記述がある由ですが、神話上の事柄であり西暦との整合性も疑わしく、史実としての妥当性についても研究が続いているとのことですから成果を待ちたいと思います。

476年ころの朝鮮半島勢力図・出典ウィキペデア

・ 新羅の入寇(しらぎのにゅうこう)

 811年~935年(新羅滅亡の年)の間、当時の朝鮮半島を支配した新羅の南部沿岸の流民や海賊とみられる集団が、頻繁に壱岐、対馬や北九州沿岸各地を襲い海賊行為を働いた。その中には新羅王の勅命によると思われる大規模なものや、同国の地方豪族集団によるものもあったと伝わっています。

・ 藤原純友(ふじわらのすみとも・893年?~941年)

 平安時代中頃の貴族で、官位は従五位の下、伊予掾(いよのじょう)として伊予守(いよのかみ)に従い、瀬戸内海で横行する海賊を退治するため伊予(四国、愛媛県)に向かい任務に就くが任期が終了しても京に帰らず、伊予の国「日振島」(ひぶりじま・愛媛県宇和島市の西方約28㎞)に土着し、海賊の頭領となって周辺海域で海賊稼業を働いた。のち、瀬戸内海全域に勢力を拡大して伊予国はもとより、939年には備前、備後を部下に襲撃させ蜂起、長門、播磨、土佐、淡路、讃岐、九州大宰府までも襲撃した。941年、朝敵純友の一統を倒すために派遣された朝廷軍を博多湾で迎え撃つが、この戦いに敗れ伊予に逃れたものの潜伏中に息子とともに「追捕使」(ついぶし)に捕らえられ斬殺されたことになっていますが、異説として投獄され獄中死した、あるいは仲間とともに船で南方に逃げた、など資料が少なく定かではありません。

 純友が蜂起する四年ほど前、関東では「平将門(たいらのまさかど、生年不詳~940年)の乱」が発生、純友と将門の間には共同謀議があり二人が比叡山で会った際、平安京を見下ろしながら「将門殿は王系なれば帝王なるべし、純友は藤原氏なれば関白とならむ。」と約したとのエピソードが伝えられています。二つの乱を併せて歴史上「承平天慶の乱」(じょうへいてんぎょうのらん・平安時代中期・天慶2年・939年)と呼ばれています。

藤原純友像(歌舞伎絵)・出典ウィキペデア

・ 刀伊の入寇(といのにゅうこう)

 刀伊とは東夷(とい)、当時の朝鮮半島の高麗(高麗、新羅も被害を受けた。)以東の「夷狄」(いてき:他民族)を高麗側から「東夷」と呼び、漢字の刀伊をあてたらしい。

 刀伊の主力は「女真族」(じょしんぞく・中国東北部で12世紀に「金国」、17世紀に「満州族」として「後金」、1616年「大清帝国」を建国、「愛新覚羅溥儀」は清国最後の皇帝)であったとされています。沿海州の日本海沿岸には女真族が進出していたことが確認されています。

 朝鮮半島東岸づたいに南下した彼らは、1019年3月海賊船50予隻、人員2000人以上の勢力で対馬を襲撃、次いで壱岐筑前博多肥前の各国を襲撃して、殺人、放火、掠奪、拉致など悪逆の限りを尽くした挙句、肥前国松浦郡を襲った際には「肥前の介源知」(ひぜんのすけ、みなもとのしらす)という武将が率いる武士団(「松浦党」?)に撃退されて撤退、退散したそうです。

・ 松浦党(まつらとう)

 刀伊による襲撃以前に肥前国松浦地方で組織された武士団の連合組織で、四十八のグループに分かれ「松浦四十八党」の別名があった。松浦地方沿岸は「五島列島」を含む大小の島々が重なる多島海域で、複雑な地形が海賊の本拠地として最適な海域となっています。加えて朝鮮半島や中国大陸にも近く、船を利用したこれらの沿岸地域との交易も盛んであったらしい。

 松浦党の本流は「摂津源氏」(源頼政一族:頼政は平安時代末期の武将、公卿<従三位>、歌人、近衛(このえ)天皇の御代、御所の警護中に現れた怪物「」(ぬえ:頭が猿、胴が狸、手足が虎、尾が蛇)を部下と一緒に退治し、仕留めた鵺をバラバラにして笹船に載せて海に流したとのエピソードが平家物語に記載されています。)の配下の一派であったが、肥前の松浦党は元々平家の家人であり、源平の戦いでは平家方の水軍として参戦していたものの「壇ノ浦の戦い」では源氏方に味方し源氏の勝利に貢献した。この功績により鎌倉幕府の西国御家人として九州北部の地頭職に任ぜられている。

 松浦党は本拠地域によって上松浦党下松浦党に大別されていたそうで、このうち上松浦党の最大勢力「波多氏」は、豊臣秀吉による朝鮮出兵の際、出陣はしたものの命令に従わず、後に知行地を没収されて滅亡(異説あり)しました。反して下松浦党の傍系「平戸松浦氏」は戦国大名として関ケ原以降も平戸藩六万三千石の外様大名として存続しました。

 平戸松浦氏25代当主「松浦隆信」(まつらたかのぶ・1529~1599)は平戸を中心に「南蛮貿易」(ポルトガル貿易)を拡大して鉄砲や大砲を積極的に買い付け、貿易による利益で領内においても鉄砲の製造や火薬の備蓄、鉄砲隊を編成・訓練して軍備増強を推進したほか、「王直」(おうちょく)「徐海」(じょかい)「李旦」(りたん)「鄭芝龍」(ていしりゅう)など明国人の海商・海賊達を庇護し、平戸を拠点とさせていました。

松浦隆信像(松浦史料博物館蔵)・出典ウィキペデア

四方海話 18  第六話 — 海賊 —  のつづき  §4  「おわり

 次回は 四方海話 19  第六話  — 海賊 — のつづき §5  ・元寇(蒙古来襲) です。

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