第六話 — 海 賊 — のつづき §4
・ 元寇(蒙古来襲)
元寇の歴史を概観すると、海賊と云うより外国による侵攻・侵略です。したがって「海賊」の範疇に入れるのはためらわれましたが、海と船にまつわる史実として要点のみ記すことにします。
歴史上、世界最大の版図を持ったとされる「モンゴル帝国」(初代皇帝は「チンギスカン」)の第5代の皇帝で「元王朝」初代皇帝「クビライ・カアン」(1215~1294)は、日本の鎌倉幕府に対し未到達を含む合計6回の使節団を派遣して国交を求めましたが受け入れられず、1274年(文永11年)蒙古人、高麗人、漢人、女真族など合計40.000人の兵卒と900隻の軍船を西日本に差し向け、対馬、壱岐、肥前、博多湾周辺に侵入、上陸して侵略しました。(文永の役)

モンゴル帝国の最大版図・出典ウィキペデア
文永の役では、鎌倉幕府の御家人と各地の地頭、松浦党の武士団が多くの犠牲を払いながら奮戦したことと、元・高麗連合軍の軍議では「限られた数の軍が援軍もなしに、増える敵軍(幕府軍)と相対するのは良策とは言えない」旨の意見があり撤退することに決した。さらに、撤退を開始した連合軍の軍船を強風が襲い多くが座礁あるいは衝突して被害が拡大した。後年、クビライと重臣の一人との会話の中で「兵を率いて征伐しても功を収めることはできなかった。有用な兵を駆り立てて無用な土地を取ろうというのは、貴重な珠を用いて雀を射落とそうとするようなもので、既に策を失っている。」と評し、作戦失敗を反省したとのことです。
その後、クビライは日本への再侵攻の準備(軍船の建造など)を進めるとともに、1275年第7回目の使節団を日本に派遣しますが、鎌倉幕府第八代執権「北条時宗」(1251~1284)はこの使節団が鎌倉に入る前(江の島付近の海岸か?)に処刑し、さらに4年後の1279年、前使節団が処刑されたことを知らぬまま使節団を派遣(8回目)、元に服属するよう強要したが一行は博多において処刑されました。
1281年(弘安4年)元・高麗連合軍の主力(東路軍)約57.000人、軍船900隻、旧南宋軍(南宋は1279年、元により攻め滅ぼされている。)の主力(江南軍)約100.000人+水夫(人数不詳)、軍船3500隻の合計、兵157.000人、軍船4.400隻(世界史上最大規模の艦隊)が日本に向けて派遣されました。(弘安の役)
対馬、壱岐、長門、博多湾(志賀島)が襲撃されるが、事前に築いた海岸線の防塁や夜襲、挟撃など地の利を活かした巧な戦法用い戦況は幕府軍の優位に展開、東路軍内に疫病が広がったこともあり兵卒の士気が極度に低下したため壱岐と平戸島に退却した。壱岐の東路軍に対しては松浦党、大村氏、高木氏、龍造寺氏などの武士団が総攻撃を仕掛けて追い出したが、のち侵略軍は平戸島を蹂躙し、さらに伊万里湾口の鷹島沖に集結、上陸し住民を虐殺したうえ占領、ここを拠点として「大宰府」への進軍を目論んだ。

伊万里湾・鷹島付近:国土地理院地図に加筆し作成
東路軍が朝鮮半島の「合浦」(がっぽ)を出港後約三か月、博多湾に侵入して約二か月後の1281年7月30日の夜、北九州地方を台風(異説:台風ではなく強風であったとの説もある:のちに云う「神風」)が襲来して軍船が甚大な被害を受けたことにより軍議のうえ撤退を決めた(異説:神風以前に既に撤退を決めていたとの説もある)。元軍の諸将の中には、無事だった軍船から兵卒を無理やり降ろして自らが乗船して逃げ帰る将官が居た一方、鷹島には兵卒10余万人が見捨てられたまま指揮官が逃げ帰ってしまったと伝えられています。のち、幕府軍による鷹島掃討戦が行われ、見捨てられた連合軍兵卒10万余のうち2~3万人が捕虜となり他は戦死したとしています。鷹島には、首徐(くびのき)、首崎、血崎、刀の元、胴代、死浦、地獄谷、供養の元、伊野利(祈り)の浜など、当時の激戦を物語る地名が多く残っているそうです。
元寇に対する別の評価として、当初クビライは日本に対する侵略の意図はなく、元王朝の交易相手国として対等の国交を目指していたとして、南宋の禅僧による鎌倉幕府への進言や大陸でのモンゴル帝国の暴虐な振る舞いについての報告があったにしろ、むしろ鎌倉幕府の曲解による事態だったと解釈する説もあります。

クビライ・カアン肖像画・出典ウィキペデア
・ 倭寇(わこう)
13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島あるいは中国大陸、東アジア各国の沿岸部で活動した日本の海賊で、別名「海乱鬼」(かいらぎ)、「八幡」(ばはん)とも呼ばれています。
前期倭寇
14世紀前後、主に瀬戸内海や北九州を拠点とした日本人と高麗人の混成集団が朝鮮半島沿岸や中国の黄海沿岸地方(登州、膠州など)で海賊行為を働いたが、日本(室町幕府)と明国の間の「勘合貿易」(室町幕府が、正式な遣明使節と倭寇や密貿易をする者とを区別するため使節団に勘合符<通行証>を発給した。)の発展とともに衰退しました。
後期倭寇
明朝(1368~1644)の海禁政策(沿岸部の自国民と倭寇が協力して海賊行為を働く事例が多発したため分断を図る目的で1371年に海禁令を発布し、官民の別なく自国民が海に出ることを禁止した。)から逃れるため、マレー半島やタイに逃れた浙江省や福建省沿岸の中国人(明人)と、主に北部九州沿岸の出身者および少数のポルトガル人を含む海賊達が、東シナ海や南シナ海を舞台に海賊行為や密貿易を続けていましたが、明国の海賊取締りの強化や「豊臣秀吉」が発布した「海賊停止令」(1588年「刀狩令」とともに発布された。)により消滅しました。
倭寇の発生原因の一説として、北部九州は「元寇」の被害地域であり、対馬、壱岐、肥前松浦党の海賊(倭寇)が後年になって「侵略者の片割れである高麗に報復することは当たり前のことで、些かの後ろめたさも無かったであろう。」また、「心構えとしては、さらさら海賊行為などではなかった。」と述懐したと云えられています。
・ 瀬戸内の海賊・村上水軍
「村上水軍」(海賊)は、ポルトガルのカトリック(イエズス会)宣教師「ルイス・フロイス」(1532~1597)をして「日本最大の海賊」と言わしめた。その勢力範囲は「芸予諸島」を中心に瀬戸内海のほぼ全域で、後に「能島」(のしま)、「因島」(いんのしま)、「来島」(くるしま)の三つの村上氏に分かれ、それぞれが連携して独自の通航秩序を構築しました。室町時代の朝鮮通信使のメンバーの一人「宋希環」という人物が残した記録では「東より西に向かう船は東の海賊を一人乗せれば西の海賊が害を及ぼさず、西より東に向かう船は西の海賊を乗せれば東の海賊が害を及ぼさないことになっているので、七貫文出して東の海賊を乗せてきた。」としています。このことから、海賊達は瀬戸内海の主要な風待ち・潮待ち港に関所(「札浦」)を設けて関銭や礼銭を徴収したり、船に「上乗り」して水先案内や警護の見返りに金銭を受け取っていたことが分ります。

来島・能島・因島の位置図・国土地理院の地図に加筆し作成
瀬戸内海は所謂「多島海」で潮流も複雑で速く、狭隘な水路も多い、また津々浦々には中小の海賊が縄張りを持ち、沖ゆく船を狙っていた。このような海域を積み荷と船を守りつつ安全に乗り切るためには、海域の特異性についてのハイレベルな知識と経験だけではなく、武力を背景とした交渉力が必要とされたにちがいなく、村上海賊のシステムはその意味で有用であったと思われます。
後に、豊臣秀吉が発布した「海賊停止令」により村上水軍は従来の活動ができなくなり、三つの村上氏はそれぞれ
- 能島村上氏 ・・・ 小早川家の家臣を経て、主家の毛利家から周防大島を与えられ臣従した。
- 因島村上氏 ・・・ 毛利家の家臣として周防三田尻を根拠地として、毛利水軍の一翼を担う。
能島・因島の両村上家は江戸期に至り「長州藩船手組」(長州藩の水軍)として活躍しました。
- 来島村上氏は関ケ原の合戦で西軍に加担したため、豊後(大分県)の内陸部「玖珠郡」(くすぐん)に転封され海辺から遠避けられ、活躍の場が制限されてしまいました。
・ 志摩半島の海賊・九鬼水軍
鎌倉時代から南北朝時代にかけ、紀伊国牟婁郡九木浦(きいこくむろぐんくきうら:三重県尾鷲市九鬼町)を根拠地とした「九鬼水軍」(初代当主は「九鬼嘉隆」:くきよしたか)と呼ばれる海賊集団が存在した。
「織田信長」に仕え、大型で外板が鉄板張りの「安宅船」(あたかぶね:あたけぶね・戦闘艦)を建造し、大阪湾で毛利氏の水軍と戦い勝利して勇名を馳せたものの、関ケ原の合戦で嘉隆は西軍の将として参戦、敗走し自害した。

安宅船(屏風絵・一部):佐賀県立博物館蔵
・ 戦後の海賊
第二次世界大戦後の日本、昭和20年代初頭の混乱期に四国の高松、丸亀、観音寺を拠点として瀬戸内海で海賊を働く集団が存在した。総勢は約2.000人とも伝えられ、機関銃を備えた「機帆船」(きはんせん:帆装と推進用内燃機関<焼玉機関>を備えた木造小型船)を使い日本刀、短銃、ダイナマイト等で武装し、航行船舶や沿岸の企業、官庁などを襲撃対象とした。五人の頭(かしら・頭目)のもと、会社員、漁師、博徒などいろいろな職業の者で構成され、仲間内でも互いに名前を伏せて活動していたらしく、昭和24年3月3日、元青果商の男(29才)他数名が検挙されたが、総元締(黒幕)は行方不明のままです。
四方海話 19 第六話 — 海 賊 — 「おわり」
次回は 四方海話 20 第七話 — 船 乗 り — です。

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