四方海話 68

ー ときの話題 ー  §25

《 帆の起源 》

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 帆の起源

 『人類はいつごろ「帆」の効用に気が付いて「舟」や「筏」に取り付け、利用し始めたのか?』という問いかけがあったので調べてみました。

 調べを進めるうちに「帆の起源」だけに着目した考古学的研究はたいへん少なく、刳り船(丸木舟)や筏などの遺物の発見と帆柱の床(船体内側の船底部に設けられた帆柱を立てるための穴や受け材)の有無とともに語られ、また、帆の材料として使った植物性の繊維や動物の皮は腐りやすく遺物として後世に残りにくいため、遺跡の発掘による出土品の装飾や壁画などそれとわかる絵画により知り得たり、古文書の記録から推定するほかはなさそうです。「エジプト文明でナイル川の葦舟や筏に取り付けたのが始まり?」「メソポタミア文明の先駆けとなるウバイド文化のほうが先?」等、色々な説がありました。

 古代文明は、ほとんどが大河(水)の恩恵(農耕の発達)を中心に展開され、「文明の始期が古いほど「筏」「舟」の利用が早かった」と決めつけることもできないようではありますが、六大文明を古い方から並べると(数字は各文明の始期)

  1 中国文明 ① 長江文明、BC14,000~  ➁ 黄河文明、BC5,000~  

  2 メソポタミア文明(ウバイド文化・ウルク文化・シュメール文化) BC6,500~

  3 エジプト文明 BC5,000~

  4 インダス文明 BC3300~

  5 メソアメリカ文明(オルメカ文明) BC1200~

  6 アンデス文明 BC1,000~

  7 アマゾン文明 BC1,000?~

  8 その他の文化

   ① パレオエスキモー文化 BC2,500~   ➁ ラピタ文化 BC1,600年頃~

   ➂ アイヌ文化 BC1,300?~

 ⑴ 中国文明

 ➀ 長江文明

 中国の湖南省道県の玉蟾岩遺跡(ぎょくせんがんいせき)でBC14,000~BC12,000年ころの稲籾が発見され、長江文明の初期とされています。時代が下って、浙江省余姚県の河姆渡遺跡(かぼといせき)では、BC5,000~BC4,000年ころに稲作、狩猟、漁撈、養豚が行われたとしています。長江文明は稲作を中心とした文明だったそうですから、長江およびその支流ではこの頃に舟(刳り船≒丸木舟?:帆を使っていた証拠は発見されていない)を使用した交易(通貨は未発達だったので物々交換)が行われ始めたことが想像できます。

 長江文明は世界最古の稲作技術(散播農法【さんぱのうほう】:種籾を均等に田に撒く水稲栽培農法)を採り入れていたようで、日本の稲作のルーツとも伝わる一方、伝播した時期とルートについては議論が続いています。

 日本で確認されている最も古い水田跡は縄文時代晩期中頃(約2,500~2600年前)の佐賀県菜畑遺跡(なばたけいせき)だそうですから、その年代以前に長江河口部の江南地方から舟に乗って東シナ海を超えて種籾が運ばれたのでしょうか?

 ➁ 黄河文明

 長江の北方を流れている黄河の流域で発展した古代文明で、BC5,000~BC1,500ころの間、小麦・大麦の栽培を中心として、灌漑技術の発展や陶器・青銅器の製造技術、城壁で囲まれた都市が造られたとされています。漁業、農業、交易(物資運搬)のために舟や皮筏を利用した痕跡はあるものの、帆を使った舟や皮筏の存在は確認されていないようです。

 皮筏(かわいかだ):牛や羊など動物の皮(剥製)に空気を入れて「浮き」を作り、多数の「浮き」を竹や木材でつなぎ合わせたもの。

皮筏(帆は取り付けられていない)の写真(出典:ウィキぺディア、No restrictions)・not edited. 

Repository:Smithsonian Institution Archives 「中国:ウールを積んだ小さな牛や牛の皮のいかだ」 

 ⑵ メソポタミア文明(ウバイド文化・シュメール文化)

 メソポタミア文明は、ペルシャ湾に注ぐティグリス川とユーフラテス川に挟まれた沖積平野(河川が運んできた土砂が堆積してできた平野)で灌漑農業(農地に人工的に水を供給することによって作物を育てる農業)を中心とした都市国家の発達により繁栄した最古の文明の一つですが、その草創期にメソポタミア南部(ペルシャ湾の奥部)で発展したウバイド文化(BC6,500~BC3,800年頃)とそれに続くシュメール文化(BC4,500~BC1,900年頃)においては、運河を造ることにより畑に水を引き、小麦、大麦、ナツメヤシ、豆類、野菜類、雑穀類などを主な農産物とし、ウシ、ヒツジ、ブタなども飼育していたようで、また、絵文字(表意文字)につづいて楔形文字も考案され、文学作品(ギルガメシュ叙事詩に代表される)、法典(ハムラビ法典など)、数学(分数・少数・六十進法・度量衡)、天文学(太陰暦)、占星術、ビールなどの嗜好品、美術(油絵)、工芸(陶器・金属細工)のほか、ノコギリ・ノミ・ハンマー・鍬・斧・ナイフなどの道具類、ブーツ・サンダルなど履物を作る技術も持っていたとされています。さらに、車輪を考案し動物(オナガー:ロバの一種)に曳かせる戦車も発明するなどハイレベルな文化ですが、これらの文化を担う人々は葦舟の舟体に土瀝青(どれきせい:ビチューメン≒タール・天然アスファルト)で防水加工(ウバイド期の後期~?)を施し、ウバイド文化の初期(BC6,000頃?)には簡単な帆柱を立て、布や葦で編んだ帆を使って生活のための必要物資を輸送し、あるいは漁業に使っていたのではないでしょうか?

 ウバイド期の人々は埋蔵石油資源の利用についてはまだ未熟で、土瀝青の地面からの湧出が所々に確認されたのみで、防水のための葦船への塗布・建築材料やミイラの防腐剤としての利用はBC3,000年~BC2,500年頃からとされています。

 また、交易による諸物資の獲得はたいへん重要だったと思われます。例えば舟を造るのに必要な木材は、陸続きの現在のトルコ東部やレバノンから調達するにしてもティグリス川やユーフラテス川の上流では流れが急すぎて、木材を川の流れに乗せて流すわけにもいかず、流れが緩くなる中流域まではウシや奴隷に陸を曳かせ、中流域からは筏を組んで(筏に帆を取り付けていたかどうかは不明)目的地まで川を下って行ったものと想像しています。

 ウバイド期の葦舟と帆についてのノウハウはウルク期を経てシュメール期に引き継がれ、丸木舟から準構造船の時代、さらに構造船(木製の板材を張り合わせて船体を構成した船)に帆を取り付け、ペルシャ湾(海)に進出するまでの期間はそれほど長い時間はかからなかったものと考えられます。

メソポタミアの地図(出典:ウィキぺディア、PD)・not edited. 

 ⑶ エジプト文明 

 ナイル川の流域に発達した古代エジプト文明でも、初期のころには葦船が使われていたようですが、歴代の王朝の中で特に古代エジプト第18王朝6代目のファラオ「トトメスⅢ」(在位:BC1,479~BC1,425)の時代には「フェニキア」(現在のレバノン:レバノン杉の産地)を版図に加え、さらに北方に勢力を拡大して「ミタンニ王国」の一部にまで拡大したのだそうです。

トトメス3世像(ルクソール博物館蔵)

トトメスⅢ像(ルクソール博物館蔵)【出典:ウィキぺディア PD】・not edited.

 フェニキアがエジプトの版図に加えられたことは、この当時は既にフェニキア人により「レバノン杉」を材料とした優秀な帆船が造られて地中海に乗り出していたことからも、エジプト文明での船や帆、航海術(帆走法を含む)の発達は元を正せばフェニキア人譲りであったことが伺えます。 

ファイル:Phoenician ship.jpg

石棺の表面に彫られたフェニキアの船(出典:ウィキぺディア、 表示-継承 3.0 非移植)・not edited.

帰属: Elie plus – 英語版ウィキペディア

  太陽の船

 古代エジプトの古王朝、第4王朝のファラオ「クフ王」の大ピラミッドはたいへん有名ですが、1954年と1984年にピラミッドの南側で2隻の船が発見されています。1954年発見の船は発掘・復元が終了し、ピラミッドの横の博物館に展示されていて、全長42.32㍍、全幅5.66㍍だそうです(下の写真)が、写真で見る限り帆装用マストは見当りません。1987年に早稲田大学エジプト学研究所が電磁波地中レーダを使って発見した「クフ王の第ニの船」は現在のところ復元に向け作業中とのことですが、未確認ながらマストが立てられていたとのことで帆装の事実があったのかも知れません。 復元船の完成と公開が待たれます。

クフ王第一の船(出典:ウィキぺディア、CC 表示-継承 3.0)・not edited.

ベルトルト・ヴェルナーさんの著作物

  ナイルの川船

 下の写真はナイルの川船の船尾に取り付けられた操舵用のステアリングオールの説明用のものです。古代エジプト第18王朝時代のメンナ(人名:古エジプト新王国時代に活躍した書記官)の墓地に残る壁画として紹介され、BC1422年~BC1411年頃に描かれたものだとされています。壁画ですから多少のデフォルメはあるものの船体に比べ大きな横帆が取り付けられていたことが判ります。 

ナイルの川船(出典:ウィキぺディア、PD)・not edited.

 ⑷ インダス文明

 BC2,500年頃~BC1800年頃の間、インダス川の流域に栄えた古代インドの文明で、高度な都市計画のもとに建設されたとされている都市国家「モヘンジョダロ 」「ハラッパー」が代表的な古代遺跡として現在も発掘が続けられているそうですが、当時繁栄したほとんどの都市遺跡は現在のパキスタンの領域にあり、インダス文字の解読とともに、まだ未解明な部分が多く残されています。各都市の遺跡からは船の模型や船をモチーフにした印章が発見されているとのことで、交易に活躍したであろう帆船の存在が伺われます。また、現在はインドの領域にある「ロータル」(インド、グジャラート州アフマダーバードの南方80㎞)という都市遺跡には、市街地に隣接して船の修理や建造に使うための「ドック」(219㍍×37㍍・深さ4.5㍍・煉瓦造り)ではないかとされる遺構が確認されています。この遺構は運河により近くの川につなげられていて、メソポタミア文明との交易船のための港湾施設ではないかとされましたが、構造上無理があるとの指摘もあり、「貯水槽」であるとする研究者もいるそうです。(ドックに関する記述はウィキペデアより引用)

ロータル遺跡の「ドック」(出典:ウィキぺディア)・not edited.

クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 3.0 非移植ライセンス・帰属:Natarajaさん

 インド洋北西部のアラビア海・オマーン湾・ペルシャ湾やアフリカ大陸東岸などで活躍した帆船には「ダウ船」「ドーニー」が有名ですが、多くの写真や資料を見ても三角帆(大三角帆)を備えています。三角帆は、一般的には紀元前後アラブ人が発明して、インド洋や地中海で使われ始めたと説明されています。  

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2本マストのインドの船(1~2世紀のコイン)【出典:ウィキぺディア PD】

コインの図柄からは三角帆・横帆の区別が難しい。

ダウ船が描かれたインドの紙幣(10ルピー)【出典:ウィキぺディア PD】

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ドーニー(モルディブの漁船)の模型写真 (出典:ウィキぺディア)・not edited.

CC 表示-継承 2.0 FlickreviewR  著者:BadrNaseem氏

 ⑸ メソアメリカ文明(オルメカ文明)

 中央アメリカ地域に栄えた文明で、以下のように区分されています。オルメカ文明の発祥のころから川や沿岸を移動し、交易や漁業にカヌーを使用していたようですが、帆については使った形跡は見いだせないようです。

  • オルメカ文化(メキシコ湾岸)      BC1,250年頃~紀元前後
  • テオティワカン文化(メキシコ中央高原) 紀元前後~AD700頃
  • マヤ文化(メキシコ南東部)       AD300年頃~AD1,600年頃
  • トルテカ文化(メキシコ中央高原)    AD700年頃~AD1200年頃
  • サポテカ文化(メキシコ・オアハカ地方)   BC1,000年頃~AD1,600年頃
  • ミシュテカ文化(メキシコ・オアハカ地方)AD1,300年頃~AD1,350年頃
  • タラスカ王国(メキシコ西部)      14世紀~16世紀初頭
  • アステカ文化(メキシコ中央高原)    15世紀~16世紀 

 ⑹ アンデス文明

 アンデス文明は、南米大陸のペルーを中心とする太平洋沿岸地域と、ペルーからボリビアにかけてのアンデス中央高地に栄えた古代文明です。下の写真は、NASA提供のアンデス山脈の衛星写真で、写真のほぼ中央山脈中の水色部分がペルーとボリビアの国境にあるチチカカ湖です。

南アメリカ大陸北西部の衛星写真 アンデス文明は写真左上の最も西に張り出した部分から、

写真中央の最も東にへこんだ部分において栄えた(出典:ウィキぺディア、PD)・not edited.

South America, Shaded Relief and Colored Height - NASA Science
This image of South America was generated with data from NASA's Shuttle Radar Topography Mission.

 アンデス文明の担い手は、約1万2千年前にベーリング海峡を渡ってアジアから移動してきた古モンゴロイドであるとされていますが、前述のメソアメリカ文明との関係性はよく分かっておらず、この文明の特徴として

  • 文字を持たない。
  • 鉄鉱石を産出する場所はあるが、製鉄の痕跡がなく、鉄は使われていない。
  • 金・銀の製錬、鋳造技術があった。
  • 硝石が豊富に採れるが、火薬は製造していなかった。
  • 家畜(ラクダ・リャマ・アルパカなど)が飼育されていた。
  • 車輪の利用がない(荷車、馬車、戦車)
  • 主食は穀物ではなく(トウモロコシの栽培はしていた)、塊茎類(かいけいるい:ジャガイモやサツマイモ、キャッサバなど)だった。

などが挙げられています。文明の中心地はペルー共和国のトルヒーヨ市周辺の北海岸地帯とチチカカ湖があるチチカカ湖盆地の一帯とされていて、同共和国の中央海岸地帯にも大規模な建造物遺跡が発見されています。

 BC3,000年~BC2,500年頃の遺跡と推定されているペルーのリマ市北方のカラル遺跡(精緻な石造建築物遺跡がある)では大量の魚介類(貝塚?)が発見されているとのことですから海辺地域で葦船を使った漁が行われていたことが伺えます。また、チチカカ湖では現在でも先住民のウロス族トトラ葦で浮島を造り湖上で生活し、伝統的に帆を取り付けた葦船(トトラ船)を漁業(刺網漁?)に使っているとのことです。下の写真はチチカカ湖の葦船のものではありませんが、ペルー北西部太平洋沿岸の都市「ワンチャコ」の海岸のトトラ葦漁船と漁具の写真です。この写真を見る限りではありますが、帆装設備はないように見受けられます。

ファイル:Peruvian fishing boats.jpg

ペルーのワンチャコのビーチにあるトトラ葦漁船(出典:ウィキぺディア)・not edited.

CC 表示 2.0・著者ロイ&ダニエル

 アンデス文明の編年

  • 先土器期(BC9,000年頃~BC1,800年頃):土器が作られる以前、狩猟・採集主体
  • 草創期 (BC1,800年頃~BC900年頃):農業の発展、定住生活が一般化
  • 前期ホライズン(BC900年頃~BC200年頃):チャビン文化隆盛
  • 中期ホライズン(BC200年頃~AD1,000年頃):ワリ文化ティワナク文化が発展、都市文明の形成、モチェ文化【ペルーの北海岸地域】、ナスカ文化【ペルーの南海岸地域】もこの頃
  • 後期ホライズン(AD1,000年頃~1533年):シカン文化チムー文化を経て、1438年インカ帝国がアンデス地域を統一
  • インカ帝国の滅亡:1533年

 ⑺ アマゾン文明? BC1,000?~

 アマゾン川はアンデス山脈を源としてブラジルの熱帯雨林(ジャングル)を横断して大西洋まで流れ下る全長約7,000㌖の大きな河で、流域の面積は世界最大です。アマゾンの熱帯雨林は「地球の肺」の別名を持っていて、地球上の酸素供給に大きな役割を担っているそうです。

 最初にアマゾン川流域を探検したのはヨーロッパ人(スペイン人)で、西暦1541年~1542年の事だそうですが、近年、古代文明の遺跡が多く存在していることが判明し、考古学的な発見が続いています。これらの遺跡の存在はこの地域にかつて、高度な文明(農地、運河、人造湖、道路の跡、建築物など)があったことを示していますが、ヨーロッパ人が到達する以前に衰退していたとされています。その原因などは今後の調査・研究を待たなければなりません。

 ブラジルの気になる帆装筏?「ジャンガダ

 ブラジルの北東部に位置するセアラー州とリオグランデ・ド・ノルテ州の海岸地域では「ジャンガダ」と呼ばれる帆装筏が現存し、漁業や物資の輸送に使用されているという。起源はブラジルの先住民族(ブラジルの先住民族は多数存在していますが、地域性からするとポティグアラ族やトゥピナンバ族か?)が伝統的に技術を継承してきたものとしていますが情報が少なく、はっきりとは分かりません。三角形の帆やダガーボード(横風の際、船体の直進性と安定性を保つため船体のほぼ中央部船底に差し込む上下可動式の板)もあることから、ヨーロッパ人がアマゾン川流域に進出した際に持ち込んだ可能性もあります。

ジャンガダ(模型)の写真(出典:ウィキペディア、PD)・not edited.

 [参考] 冒険小説作家「ジュール・ベルヌ」とジャンガダ

 フランスの作家「ジュール・ベルヌ」(1828~1905)原作の冒険小説『La Jangada』の中に巨大なジャンガダ(船内に集落や教会もある)が出てきます。こちらはフィクションですので実証価値はありませんが、ドラマはその船上で展開されているそうです。日本語版も出版済み。 

原書の扉絵[1]

ジュール・ヴェルヌの小説「アマゾンの八百里」(『La Jangada』の別名)の挿絵。

(出典:ウィキペディア PD)・not edited.  著作者 レオン・ベネット

 ⑻ その他の文化 

 ① パレオ・エスキモー文化

 パレオ・エスキモー とは、イヌイット(トゥーレ人)以前に 北極圏(ロシア極東のチュクチ半島から北アメリカを経てグリーンランドまで)に住んでいた人々で、彼等が担っていた「パレオ・エスキモー文化」はBC2,500年頃成立し、AD1,500年頃には消滅したとされています。この文化は、グリーンランド南部の古代文化である「サカク文化」や北極海沿岸の「ドーセット文化」を含み、「バーナーク文化」を経てAD1,200年ころにはトゥーレ人(イヌイット)による「トゥーレ文化」圏(ほぼ北極圏全域)に拡大していった。北極圏の人々は、海生哺乳類等(クジラ、アザラシ、セイウチ、トナカイ)の狩猟と漁業について高い技術を持ち、遺跡からは、石や動物の骨、象牙を使った道具・武器が見つかっているとのことです。

 狩猟を主とした生活は、広範囲な対象動物の探索が不可欠ですが、それに応じて居住地の移動も必要となります。人々は少人数用で軽快な狩猟用の「カヤック」のほか「ウミアック」(流木やクジラの骨等の骨組みにアザラシ・セイウチの皮を張って造る。最大15人~20人乗り程度)と呼ばれる大型のボートに居住用のテントや家財を積み込み、夏の氷の少ない季節には食料を求めての移動や獲物の運搬など、生活の必需品として利用していたようです。下の写真は「アラスカの伝統的な捕鯨船の乗組員とボート」として紹介されている写真ですが、ウミアックは本来は「手漕ぎボート」であるとされているものの、さらに大型のものでは帆装が確認されています。

ウミアックの写真(出典:ウィキペディア、PD)・not edited.

テッド・スティーブンス氏(アメリカ上院議員、共和党 、アラスカ州選出) の著作

 ➁ ラピタ文化

 BC1,600年頃~BC500年頃にかけて、メラネシア・ポリネシア・ミクロネシアに広がったとされる細かい幾何学模様が描かれた土器を特徴とする文化圏ですが、その起源や島々への拡散経路については未解明な部分や謎とされている事柄が多く、遺跡の発掘と調査研究が進められています。

ポリネシア(紫),ミクロネシア(赤),メラネシア(青)

オセアニア地域の地図(出典:ウィキペディア、PD)・not edited.

 注目すべきは、この文化を担っていた「ラピタ人」達は高度な航海技術を身に付け、帆装を施した「ダブルカヌー」「アウトリガーカヌー」を使って遠洋航海し、オセアニアのほぼ全域に居住地域を拡大したとしています。

アウトリガーカヌーの写真(出典:ウィキペディア、クリエイティブ・コモンズ 表示 2.5 ジェネリック)・not edited.

アドミラルティ諸島(パプアニューギニア)のアウトリガーカヌー、帆はパンダナスの葉のストリップから織られています。

ドイツ、ブレーメンのユーバーゼー美術館に展示されている。 著者 ヴェルナー・ヴィルマン氏

パンダナス:タコノキ科タコノキ属の植物で、およそ600が知られている。アジアやアフリカなど環太平洋の熱帯地域に広く分布している。 

 言語学上の立場からラピタ人のルーツを探ってみると、BC1,000年頃の台湾に行き当たるそうで「オーストロネシア語族」と呼ばれています。台湾で話されている諸言語が最も古い形式を保っているのだそうですが、人々の海上移動には、ある程度の大きさと堪航性能を備えた舟が必要となることは当然で、食料、生活用品、家族、水、釣り具などを積込み住み慣れた土地を離れることは、相当な動機と覚悟を必要としたことでしょう。下図はオーストロネシア語族の言語拡散を表した地図です。この地図の経路と年代がそのまま「舟と帆・航海技術の拡散」を示すものとは思われませんが参考のため掲載します。

ファイル:Migraciones austronesias.png

オーストロネシア語族の言語拡張の地図

(出典:ウィキペディア、Creative Commons Attribution 3.0 Unported)・not edited.

著者 Maulucioni, 原作:Christophe Cagé

 ➂ アイヌ文化 

 日本の先住民とされるアイヌの人たちの文化の中にも「イタオマチプ」と呼ばれる帆装の準構造船(縫合船)があります。アイヌ語で「イタ(板)をとりつけたチプ(舟)」の意味で、丸木舟に外板を取り付けて大型化し、両舷に1本づつ2本の帆柱を立てて、間に蒲(がま)の葉で編んだ蓆(むしろ)を張り渡し、帆として利用したようです。

アイヌの伝統舟艇「イタオマチㇷ゚」(複製品) 北海道博物館収蔵品 (出典:ウィキペディア)・not edited.

Creative Commons CC0 1.0 Universal Public Domain Dedication 著者 タクナワン

 アイヌの人々は河川や沼などで、普段の漁労や近場の移動などには帆を使わず刳り船(丸木舟)をパドルで漕いで使っていたようですが、交易などのため海上を比較的長距離移動する際には刳り船より堪高性能が高いイタオマチプを使っていたようです。風上への移動はオールを使って漕ぎ、風下へ移動する順風の際にのみ帆を使用した(風上への切り上がり〔間切り航法〕は船体構造と帆装構造から難しい)ものと思われます。

 イタオマチプは船体外板を固定するために「釘」(くぎ)や「ほぞ繋ぎ」を使わない「縫合船」(ほうごうせん)だったそうで、板と板を接ぎ合わせるために接合部に穴をあけ細索を通し締め付け、板の間には浸水防止材として苔(こけ)を挟み込んでいたそうです。

 イタオマチプの原形が造られ、使われた時代は続縄文文化期(BC300年~AD700年)で日本本土では弥生時代初期(稲作文化が九州から本州・四国に広まった頃)から飛鳥時代の終わり頃(中央集権的な国家体制が形になり始めた頃)と推定されますが、最初から帆が取り付けられていたかどうかは確たる資料が見当たりません。もしかすると中国の長江文明から稲作の種籾の伝来とともに帆装した舟の原形も伝えられ、舟と帆・帆走技術とともに稲作文化も列島を北上して行ったのかも知れません?

 終わりに

 帆が舟に取り付けられて、風の力を利用し舟を走らせたのはいつの時代からなのか?

 個人的には材料の調達や造船に必要な道具の発達の点から、メソポタミア文明のウバイド期に軍配を上げたいのですが!

 そもそも、水面に浮かぶものに乗って風を受ければ風下に吹き流されて、動いて行くことは聡明な人類であればかなり早いい時期に気が付くはずで、その観点からみれば舟ではなく筏に帆を付けたのが最初であったのではないでしょうか?

 ただ、風の向くままだけではなく、目標地点に辿り着くには逆風対策と梶が必要となるのは言うまでもありませんが!

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四方海話 68  ー ときの話題 ー  §25  「おわり」

次回は 四方海話69  ー ときの話題 ー  §26 です。

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